『解放教育』連載 「アフガンに生きる子どもたち」 第一回
もうひとつの素顔
母語ダリ語の教科書を読む小学2年生(バーミヤン州ヤカウラン郡)
「アフガニスタンの新聞記事、切り抜くのもうやめたわ」 電話口の母親の声が沈んでいた。
2006年夏にアフガンに赴任して以降、カブールから関西の実家へ帰るたび、スクラップされた十数枚の記事が居間のピアノの上に山積みにされていた。記事の切り抜きがいつの間にか母親の習慣となっていたのだ。帰国した僕はそうした記事を手にしては、アフガンの治安情勢や復興状況が日本の人びとにどのように報道され伝えられているのか知ることができた。
アフガン国内の治安情勢が年々悪くなるにつれ、日本の新聞各紙には「治安泥沼化」「テロ続発」「増派、なお苦しい戦い」といった暗い見出しが頻繁に並ぶ。そして、息子が暮らすアフガンの情勢悪化に居たたまれなくなった母親はスクラップの習慣を止めたのである。
確かに、治安情勢が好転する材料は乏しい。自爆テロや爆発、武力衝突のせいで一般市民や外国人が捲き添えをくらう件数は増加の傾向を辿る。国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)によれば、2009年だけで市民2,400人以上が暴力により亡くなり、前年比で14%の増加という。2001年にタリバン政権が崩壊して以降、最悪の年間数値を更新した。今に始まったことではないが、このように恒常的に不安定な治安情勢が続いているのだから、アフガン国内に滞在する者にとっては予断を許さない状況が続くことになる。
一方で、戦火を生き抜いてきた村のおとなたちや、ここアフガンに生きる子どもたちと直に接し、彼らと時間を共有しながら草の根支援の一端を担ってきた自分には、新聞紙面で描写されるアフガンの「実態」に何か違和感を覚えるときもある。テレビや紙上で語られるアフガンだけがすべてじゃない、そんな気持ちをフィールドにいると抱くことがあるのだ。
アフガンに生きる子どもたちの「いま」を復興支援の現場から伝えたい。そうすることで、日本ではあまり語られないアフガンのもうひとつの素顔、すなわち、先に触れたアフガンの厳しい現実に加え、子どもたちの生きる力強さやみなぎる学習意欲、将来に一筋の希望の光を見いだせるような教育支援の可能性を浮き彫りにできるのではないか。そんな想いを根底に据えて、この連載「アフガンに生きる子どもたち」を12回にわたって記していきたい。
2007年4月から2008年3月の間、本誌で「アフガンの子どもたち」という連載枠を頂き、そこでは、中央高地バーミヤン州で当時出会った子どもたちの暮らしや教育状況について記した。今回の連載では、そのバーミヤンに加え、アフガン北部に位置するファリアブ州やサリプル州、ジョウズジャン州といった農村地域にも視野を拡げ、そこに生きる子どもたちの「いま」を伝えていきたいと思う。
2009年の秋、一年半ぶりにアフガンに足を踏み入れ、二度目の駐在を始めることとなった。当時はちょうど大統領選挙が終わり、不正票の発覚などで決選投票が実施されるか否かで政局が揺れ動いていた時期でもあった。そんな中、久しぶりの入国とあって、機内では少し不安混じりの緊張を覚えたが、いざカブール空港に到着しセーブ・ザ・チルドレンの車で市内を移動すると、自然に気持ちが落ち着き始めた。たぶん、以前と変り映えしない街の光景を目にしたからだと思う。バザールを行き交う家族連れや学校帰りの子どもたち、街を覆う黄土色の砂ぼこりの臭い、すべてが心地の良い懐かしさとして胸の内へすっと浸み入ってきた。
「アフガンに帰ってきたんだーー」
夕暮れのカブールの街には帰宅の途に就く人びとや車が縦横無尽に行き交う。遥か遠くには、うっすらと雪をかぶった山々の稜線が浮かぶ。街中にも冷たい風が吹き抜けた。アフガンの長い冬がもうそこまで来ているようだ。
山の斜面には礫土の家屋がずらりと並ぶ。乾いたカブールにも虹が掛かった
園田 『解放教育』(明治図書)2010年4月号より