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「私の一番の願いは、紛争が終わって家に帰ること」ガザ地区中部の避難所に暮らす、サマーさん(4児の母親)のストーリー

ガザ
(公開日:2024.10.15)

【パレスチナ・ガザ地区】
「私の一番の願いは、紛争が終わって家に帰ること」ガザ地区中部の避難所に暮らす、サマーさん(4児の母親)のストーリー

 
2023年10月7日に始まったパレスチナ・ガザ地区での武力衝突から1年が経ちました。これまでにガザ地区の子どもの総人口の1パーセントにあたる1万4,100人以上が犠牲となり、2万人以上の子どもが破壊されたがれきの下敷きなどになり行方不明になっています。病院も破壊され、人口220万人のほとんどが肝炎や呼吸器、消化器系の感染症などに苦しみ、人口の半分が飢えに苦しんでいます。栄養不良の結果、亡くなる子どもも増えています。こうした中、セーブ・ザ・チルドレンは2023年10月15日以降、緊急支援を行い、これまでに70万人以上の子どもとその家族に支援を届けてきました。また、皆さまからのご支援を受け、公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンも、水や食料支援、精神保健・心理社会的支援などをこれらの活動の一環として実施しています。

【2023年10月15日〜2024年9月6日までの各分野における支援状況】 
○子どもの保護、精神保健・心理社会的支援:6万8,113人
○教育:4,400人の子ども
○水・衛生、シェルター:51万7,401人
○現金支援、食料安全保障:18万3,450人
○保健・栄養:4万5,720人
※より詳しい活動内容はこちら 

しかし、逃げる場所もない中で繰り返される空爆や、避難所での生活によって人々は疲弊しきっています。ガザ地区で被災したサマーさん(4児の母親)の証言を紹介します。
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昨年、イスラエル軍が夜中の2時に隣の家を爆撃した後、私たちの家を攻撃してきたので、自宅から逃げ出しました。爆撃されたのです。寝ている私たちの上にガラスの破片が落ちてきて、埃が舞っていました。自分の指が見えないほどでした。それくらい埃と煙がすごかったのを覚えています。私は子どもたちを集めて、できる限り持てる物を持って、通りに出ました。そして、近くの家に避難しましたが眠れませんでした。
更に隣の家が爆撃されたとき、子どもたちは怖がり悲鳴を上げました。私は子どもたちに「もう大丈夫。爆撃からは、離れているのだから」と言いましたが、子どもたちは悲鳴をあげながら「近いよ!ガラスが壊れたらどうするの」と言い続けました。私はしかたなく「神様が守ってくださるから大丈夫」と言い続けるほかありませんでした。そして、私たちはより安全な場所を求めて翌朝その家を出ました。


道では、同じく避難している人がいました。ロケット弾の音が聞こえると、聞こえた人が手を挙げます。次々と人が手を挙げていました。またある人は家の外に飛び出してきて、またある人は悲鳴を上げています。外にいても、その音を聞くと家の中に逃げ込む人もいました。私は、そうした人々を横目にしながら神に祈るよう子どもたちに言い「音はまだ遠いから安全だよ」と言いました。次女はロケット弾の音を聞くと(ロケット弾の音をまねて)「ボーン」と言います。それか、悲鳴を上げたり、震え上がったりします。私も一生懸命慰めるのですが、私たち大人も怖いのです。


今いる避難所では、午前7時か8時に起きます。8時になると太陽がテントに当たり、テントの中はとても暑くなり、ハエもいっぱい飛んできます。子どもたちはすぐに外に出ますが、私は子どもたちの服を着替えさせ、簡単な朝食を作って食べさせ、体を洗ったりします。また、洗濯をします。


子どもたちは近所の子どもたちと遊んだり、別のキャンプにいる叔母のところに行ったりします。また、いとこたちがやってきたりもします。子どもたちは、時々拾い集めたおもちゃで遊んだり、それを外に持ち出して他の子どもと遊んだりもしています。
ランチタイムには、食べ物があれば何か作り、支援でもらった食べ物があるときはそれを食べます。食後は、また外に出ることもあれば、テントの中にいることもあります。



サマーさんと子どもたち(2024年9月)

私には3人のきょうだいがいます。皆ガザ市(ガザ地区北部にある大きな町)に住んでいました。当時、きょうだいの1人はイスラエル、2人はガザ地区で働いていました。そのうち二人は結婚していて、一番下は25歳で独身です。イスラエル軍からは、彼らの家族に電話で「避難するように」と命令がありました。イスラエルで働いていた兄は別の場所に避難しましたが、独身の末っ子ともう一人のきょうだいは、自宅を出て避難することを拒み、ガザ市に残っていました。その後、攻撃が激化し、イスラエル軍が地上侵攻を行ったとき、彼らは軍に拘束されました。妻や女性たちは拘束されませんでしたが、南へ逃げるように命令されました。拘束されたきょうだい2人は尋問されて、結婚していた方は釈放され、独身の方は拘留されたままでした。彼は2ヶ月間拘留されましたがその後釈放されて、今は安全です。怪我をしていて肩が折れていますが、とにかく彼が帰ってきたことを神に感謝します。しかし、きょうだい3人ともまだガザ市に居ます。住む場所が無いので、転々と移動して避難しているようです。

私の義理の兄も妻子とともにガザ市に残っていました。彼らは逃げることを拒否し、義理の両親とともに残っていました。イスラエル兵士が近所に来た時、身を隠すためのあらゆる手を尽くしましたが、義兄は頭を撃ちぬかれて即死しました。2024年8月中旬頃には、残された彼の妻と子どもたち、義理の家族が住むビルにロケット弾が撃ち込まれました。幸い不発弾で爆発はしませんでしたが、2人の子どものうち、男の子は衝撃によってふき飛ばされて犠牲になりました。もう1人の女の子は怪我をして、何針か縫う必要がありました。でも、他の家族は生きているので、神に感謝しています。私の甥の一人も殺されました。彼は家に居ましたが、入ってきたイスラエル軍によって殺されました。


ガザ市には、妹も住んでいました。彼女は、3人の子どもたちを祖父に預けて子どもたちと別の家にいました。年寄りと子どもは殺されにくいと思ったからです。ある日、彼女の家にイスラエル軍が来て、「出て行け」と命令しました。それで、彼女は南部に逃げて来たのですが、ガザ市に残っている子どもたちと祖父に4、5ヶ月会えませんでした。私は毎日、彼女が子どもたちと再会できるよう祈っていましたが、子どもの1人が犠牲になりました。その時家には、祖父母と3人の子どもを含む12人がいたそうです。その3人の子どものうち1人は拘束され、2人目は脚を負傷し、3人目が犠牲になりました。彼女はその話題になると涙を流し、子どもを返してくださいと祈っています。


私たちは普通の生活をしていました。昨年10月の武力衝突前、自宅に住むことができたのはたった1年です。新しい家でした。この家を手に入れるために、すべての財産を売りました。結婚して10年目で、寝室が2つある家でした。他の女性たちと同じように、家を持つのが私の夢だったのです。


今、やることと言えば、水汲み、それから支援物資を入手することです。このキャンプには代表がいません。他のキャンプでは、例えば1家族に3キロずつ肉と決め配給されていましたが、このキャンプには代表者がいないので、そうした配給はありません。こうなる前は、誰かに物をもらうなんてことは想像もしていませんでした。夫が働いて、必要なものは何でも買うことができました。しかし今は、まわりの人々が何を手に入れたり買ったりしているかをよく見ています。息子は他の人と同じものを欲しがります。数日後に手に入るかもしれないし、手に入らないかもしれません。



テントの前で、料理をするサマーさん(2024年9月)


子どもたちを慰めるために、私はときどき絵や字を書くように促します。エネルギーを発散させるために、家の隅っこで、おもちゃで遊んだらと薦めることもあります。子どもたちと一緒に遊ぶこともあります。そうすることで、私も彼らも安らぎを得ることができるのです。ただ子ども同士で喧嘩もおきます。そんな時、私は彼らに寄り添い、前向きな言葉をかけるようにしています。この苦しい状況に対処して、きょうだいとして仲良くする必要があることを伝えます。「喧嘩をしないで、恨みを持たず、互いを愛し合いましょう」と言います。


ガザ市の自宅に住んでいたころは、水汲みに行ったことなどありませんでした。塩分を含んでいましたが、水道を通じて水が各家庭に供給されていましたし、飲み水については、地下に巨大な樽があり、自治体が水を入れてくれていました。以前は水を手に入れるために、自分たちが動く必要はなかったのです。


しかし今は、息子が外で遊びながら見ていて、飲料用の給水車が来ると私に叫んで知らせてくれます。それから、息子はペットボトルを担いで走り、きょうだい、夫、父、おじも急いで給水車を追いかけます。そのほか、生活用水に使える井戸があり、水を汲んでテントまで運んできます。トイレや洗濯、シャワーなどにその水を使います。


以前は、水や食べ物について考えたこともありませんでしたが、今、子どもたちは支援された食料や水を手に入れるために走っているのです。炊き出しでは、時々パンが配られます。今テントに6人の子どもがいるのですが、1日に8個か10個のパンが限度です。スパゲッティや豆類が出ることもあります。こうした食べ物や水を手に入れるために、私たちは1時間から2時間、太陽の下で鍋をもって列に並ばなければなりません。


ガザ地区の状況は悲惨です。子どもたちの間で多くの病気がまん延しています。たとえば私の娘は、全身にひどい発疹ができました。複数の診療所を訪ねても、薬はありませんでした。でも、セーブ・ザ・チルドレンの診療所に行った時に、3日分の薬をもらいました。薬によって発疹が消えたことを神に感謝しました。息子が熱を出した時も行きました。私も具合が悪くなるとセーブ・ザ・チルドレンの診療所に行きます。昨日、甥が発熱し、扁桃腺に炎症が起こりました、妹は甥を複数の診療所に連れて行きましたが、薬はありませんでした。そこで、私は妹をセーブ・ザ・チルドレンの診療所に連れて行き、そこで2種類の薬をもらいました。妹は、やっと薬を見つけることができたと喜んでいました。今朝、もう1人の姉から電話がありました。彼女は妹から診療所のことを聞いたようです。セーブ・ザ・チルドレンの診療所には、子どもだけでなく、女性専用の診療所が午後2時から4時まで開いていることを教えてあげました。それから、木曜日に来れば薬がもらえる可能性もあることを教えました。


セーブ・ザ・チルドレンの診療所で看護師と話すサマーさん(2024年9月)

私の一番の願いは、紛争が終わって家に帰ることです。私の家は壁や窓が破壊されてしまいましたが、それでも家に帰り、家を修理して、かつて愛していた生活を取り戻したいです。きょうだいや親戚に会って、もう一度愛すべき生活を送りたいです。


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セーブ・ザ・チルドレンは、1953年以来パレスチナの子どもを支援してきました。しかし、パレスチナの子どもを取り巻く状況は悪化の一途をたどっています。特に今回の危機におけるガザ地区の子どもの状況は深刻で、ガザ地区の現地スタッフは「このままいけば、支援物資を棺に置き換える必要がある」と言っています。セーブ・ザ・チルドレンは、引き続きガザ地区で支援を継続していきます。そして、支援を確実に届けるために、またガザ地区の子どもを含むすべての子どもが安心に暮らすために、世界の関係国リーダーへの即時かつ恒久的な停戦と、子どもの権利の順守を訴えていきます。


(海外事業部・金子由佳)







 

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