シリア危機(公開日:2021.04.14)
【シリア危機10年】シリアの地を離れて10年―私の心のシリアはいつもそこに
セーブ・ザ・チルドレン中東・東欧地域メディアマネージャー アハマッド・ベイラムからの報告です。
10年前、私はシリアを離れ母国レバノンに戻ることを決意しました。治安が悪化する前に下した決断でした。おじがバス停まで見送りに来てくれたとき、私にこう言いました。「きっとこの場所が恋しくなるよ。」
10年前、私はシリアを離れ母国レバノンに戻ることを決意しました。治安が悪化する前に下した決断でした。おじがバス停まで見送りに来てくれたとき、私にこう言いました。「きっとこの場所が恋しくなるよ。」
当時の私は20代で、次なる冒険に心を躍らせていたため、おじの言葉をあまり深く受け止めませんでした。私は、これからも第二の故郷であるシリアのアレッポにときどき戻って、家族に会えるだろうと考えていました。
10年が経ったいま、私はおじの言葉を毎日のように思い出します。
2012年、アレッポに最初の爆撃があった後、シリア人の母はきょうだいとともに避難しました。私の父は家に残ると決めましたが、その2年後、1人で静かに亡くなりました。
こうした経験は、今となっては遠い昔の記憶です。しかし、人生の3分の2をシリアで過ごしたレバノン人の私は、シリアに対する思い入れがあります。私は幼少期をアレッポで過ごし、アレッポの学校や大学に通いました。
シリア国内の多くの町と同様、アレッポは、凄惨な戦闘により大きく傷つきました。国内で数万人の子どもたちが犠牲になったり負傷したりしました。そして、数百万人が生活の場を追われました。川や乳製品を使った豊かな食事でしか知られていなかった村は、流血と破壊により、一夜にしてニュースの一面になりました。
また、戻った先のレバノンは、私が期待していたような状況ではなく、現実に愕然としました。私は、自分のアイデンティティについて悩み始めました。どこへ行っても、私は「アレッポ市民」と呼ばれたのです。―それが、まるで恥ずべきことであるかのように。
私は、レバノンで、避難生活をする人々の社会統合に向けて、すべきことがあると気が付きました。
一度の暴風雨で壊れてしまうようなテントで毎日を過ごし、足を温めるものも無く、裸足で泥のなかを歩くシリアの子どもたちと出会ったとき、私は、彼らの帰属意識について考えるようになりました。
子どもたちは、出身国であるシリアとのつながりを感じにくくなっていますが、レバノンでも多くの子どもたちが帰属意識を持てずにいます。セーブ・ザ・チルドレンの最新の調査では、レバノンで避難生活を送るシリアの子どもたちのうち、シリアに戻りたいと回答した人は29%にすぎず、トルコでは9%、ヨルダンでは3%しかいませんでした。この数字からは、シリア難民の家庭において、アイデンティティの問題がどれだけ根深いかが分かります。
シリアの子どもたちは、自分たちの居場所は紛争下ではないと考えています。故郷というのは、突然爆弾が落ちてくるような場所でもなく、また、学校がなかったり、食べ物が十分になかったり、病気やけがを治療できる病院がなかったりする場所でもありません。そして、自分自身のための決断ができない場所でもないのです。
私が訴えたいこと
レバノンの人々の多くは、シリアから逃れてきた難民の受け入れに対して寛容ですが、それでも依然として難民の受け入れは国にとって重荷だと考えられています。子どもたちは、かつての私のように、発音を理由に学校でいじめに遭います。どこに行っても、経済危機や、劣悪なインターネット環境、停電、不十分な穀物供給など、何かにつけてシリアの人々は非難されていました。
私は、レバノンにおいて、難民に対する見方を変えたいと思うようになりました。
5年前の3月、私はセーブ・ザ・チルドレンに入局しましたが、3月15日という日は国際的にシリア危機が始まったとされている日です。セーブ・ザ・チルドレンでの職務を通じて、私は、かつての私のように、自分たちが引き起こしたわけではない戦闘を理由に離ればなれとなった家族がたくさんいることを知りました。私の小さないとこたちのように、シリア国内外で離ればなれになり、何が起こったのか分かっていない子どもたちが大勢います。
私は、こうした経験を経た1人の個人から、専門家になりました。
過去5年にわたって、私の仕事は、シリアやレバノンやその他の国の子どもたちの言葉を世界に届け、聞いてもらえるようにすることでした。なかでも私がいつも聞く言葉は、「私たちの心のシリアはいつもそこにある。」という言葉です。
この言葉が、次の世代へ受け継がれるものとなるかどうかは、まだ誰にもわかりません。
しかし、シリアの子どもたちは、どこにいても平和かつ安全に暮らす権利があり、彼らの教育や将来が保障されるべきです。レバノンのような難民受け入れ国は、過去10年にわたって見せてきたような、脆弱な立場に置かれた人々に対する寛容な姿勢を続けるべきです。シリア難民が、明日への不安を持たずに暮らせるように。
<関連リンク>
■漫画で読む シリア難民ハナさんのストーリーはこちら
10年が経ったいま、私はおじの言葉を毎日のように思い出します。
2012年、アレッポに最初の爆撃があった後、シリア人の母はきょうだいとともに避難しました。私の父は家に残ると決めましたが、その2年後、1人で静かに亡くなりました。
こうした経験は、今となっては遠い昔の記憶です。しかし、人生の3分の2をシリアで過ごしたレバノン人の私は、シリアに対する思い入れがあります。私は幼少期をアレッポで過ごし、アレッポの学校や大学に通いました。
シリア国内の多くの町と同様、アレッポは、凄惨な戦闘により大きく傷つきました。国内で数万人の子どもたちが犠牲になったり負傷したりしました。そして、数百万人が生活の場を追われました。川や乳製品を使った豊かな食事でしか知られていなかった村は、流血と破壊により、一夜にしてニュースの一面になりました。
また、戻った先のレバノンは、私が期待していたような状況ではなく、現実に愕然としました。私は、自分のアイデンティティについて悩み始めました。どこへ行っても、私は「アレッポ市民」と呼ばれたのです。―それが、まるで恥ずべきことであるかのように。
私は、レバノンで、避難生活をする人々の社会統合に向けて、すべきことがあると気が付きました。
一度の暴風雨で壊れてしまうようなテントで毎日を過ごし、足を温めるものも無く、裸足で泥のなかを歩くシリアの子どもたちと出会ったとき、私は、彼らの帰属意識について考えるようになりました。
子どもたちは、出身国であるシリアとのつながりを感じにくくなっていますが、レバノンでも多くの子どもたちが帰属意識を持てずにいます。セーブ・ザ・チルドレンの最新の調査では、レバノンで避難生活を送るシリアの子どもたちのうち、シリアに戻りたいと回答した人は29%にすぎず、トルコでは9%、ヨルダンでは3%しかいませんでした。この数字からは、シリア難民の家庭において、アイデンティティの問題がどれだけ根深いかが分かります。
シリアの子どもたちは、自分たちの居場所は紛争下ではないと考えています。故郷というのは、突然爆弾が落ちてくるような場所でもなく、また、学校がなかったり、食べ物が十分になかったり、病気やけがを治療できる病院がなかったりする場所でもありません。そして、自分自身のための決断ができない場所でもないのです。
私が訴えたいこと
レバノンの人々の多くは、シリアから逃れてきた難民の受け入れに対して寛容ですが、それでも依然として難民の受け入れは国にとって重荷だと考えられています。子どもたちは、かつての私のように、発音を理由に学校でいじめに遭います。どこに行っても、経済危機や、劣悪なインターネット環境、停電、不十分な穀物供給など、何かにつけてシリアの人々は非難されていました。
私は、レバノンにおいて、難民に対する見方を変えたいと思うようになりました。
5年前の3月、私はセーブ・ザ・チルドレンに入局しましたが、3月15日という日は国際的にシリア危機が始まったとされている日です。セーブ・ザ・チルドレンでの職務を通じて、私は、かつての私のように、自分たちが引き起こしたわけではない戦闘を理由に離ればなれとなった家族がたくさんいることを知りました。私の小さないとこたちのように、シリア国内外で離ればなれになり、何が起こったのか分かっていない子どもたちが大勢います。
私は、こうした経験を経た1人の個人から、専門家になりました。
過去5年にわたって、私の仕事は、シリアやレバノンやその他の国の子どもたちの言葉を世界に届け、聞いてもらえるようにすることでした。なかでも私がいつも聞く言葉は、「私たちの心のシリアはいつもそこにある。」という言葉です。
この言葉が、次の世代へ受け継がれるものとなるかどうかは、まだ誰にもわかりません。
しかし、シリアの子どもたちは、どこにいても平和かつ安全に暮らす権利があり、彼らの教育や将来が保障されるべきです。レバノンのような難民受け入れ国は、過去10年にわたって見せてきたような、脆弱な立場に置かれた人々に対する寛容な姿勢を続けるべきです。シリア難民が、明日への不安を持たずに暮らせるように。
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■漫画で読む シリア難民ハナさんのストーリーはこちら